夜七時

2025-11-28

映画『ギルバート・グレイプ』 は、まるで自分の物語みたいだった

90年代に青春時代を送った僕らには、特別な思い出のある作品『ギルバート・グレイプ』。

僕も10代の頃に一度観ただけだったが、40代半ばになった今、改めて観てみた。

すると――

驚くほど「自分の物語」と重なっていた。

若い頃には気付けなかった、あの映画の“本当の顔”。

それを今日は書き残しておきたい。

ギルバートは「義務」によってゆっくり心を失っていく

父アルバートは自殺し、母は肥満でほとんど動けない。

弟アーニーには知的障害があり、家族はギルバートに大きく依存している。

ギルバートは仕事をし、家の修理をし、弟の世話をし、母を気遣う。

一見すると「優しい息子」だが、問題の本質はそこではない。

彼は、いつの間にか“義務しかない人生”になってしまっていた。

自分の意思で選ぶ余白がない。

「こうするしかない」

「俺がやらなきゃ」

その積み重ねが、彼の心を静かに削っていく。

そして気づけば、 父アルバートが死ぬ直前に見せた“無の表情” を、ギルバート自身がまとい始めていた。

まるで心が死にかけているような顔。

これは、今の僕ら子育て世代が抱える問題とも驚くほど似ている。

ベッキーが象徴するもの

自由な価値観と、文字通り定住せずに旅をしていると言うベッキー。

ギルバートと正反対な暮らしをしているので、分かりやすい対比となっている。

が、ギルバートの中にはベッキーのように暮らしたいという願望がある。

ギルバートは、そこに固定化される事によって将来が予定されているのである。

その予定は、自分の希望では無く、家族や周囲からの期待で作られている。

一方、ベッキーは明日の事すらどうなるか分からない旅をしている。

その日のその瞬間を、味わって楽しんで過ごしている。

こちらの方が、人間的な生き方に見える。

何となくだけど。

僕は安定を求めている癖に、先が見える世界だとうんざりしてしまうみたいだ。

だから、ギルバートが死んだ顔になってしまうのが、よく分かる気がする。

ギルバートの呪縛が解けたのは「偶然」だった

この映画はハッピーエンドで終わる。

母親が突然亡くなり、家を焼却し、家族は“物理的に”解放される。

これは残酷だが、ギルバートは自分で自由を選んだのではない。外的要因がたまたま呪縛を壊しただけだ。

もし母が死ななければ、ギルバートはどうなっていただろう?

僕はこう思う。

高い確率で、縛られたままだった。

ただし、完全ではなく、少しずつ解放に向かっていったのでは無いか。


ベッキーと母の「出会い」こそ、物語の本当の分岐点

この映画で特に美しいのは、ベッキーがギルバートだけでなく、母の心にも“外の風”を入れたことだ。

母は長い間、

・罪悪感

・恥

・孤立

・自己否定

・依存の連鎖

その全てに押し潰されて、心が死んでいた。

しかし、ベッキーが偏見ゼロで接した瞬間、母は「自分が存在していい」という感覚を一瞬取り戻した。

そして、あの象徴的なシーン。

母は2階に戻る。=再び“生きる”ことを選ぶ。

階段を上る姿は、

まるで「この腐った連鎖を終わらせるのは私だ」と覚悟したようにも見える。

もし母が生き続けていたら――

僕は、母は少しづつ自立し、痩せ、家族との関係を建て直した可能性すらあると思っている。


そして、残された僕らへ

ギルバートは偶然救われた。

呪縛が外側から勝手に崩れた。

だけど、僕らの人生はそうはいかない。

しがらみは自然消滅しない。

僕らは、自分で“変わるきっかけ”を見つけなきゃいけない。

僕自身も、義務に押し潰されかけていた。

仕事、家族、責任、期待。

それらに支配されて、生きているのか耐えているのか分からなくなったことがある。

でも今は、ようやく気づけた。

人生を変える最初の一歩は、「気づくこと」だ。

ギルバートの表情が父と同じになっていたように、僕自身もどこかで同じ顔になりかけていた。

そこに気づいた瞬間から、人はようやく再生を始めるんだろう。


僕らもギルバートのように「再生」するために

何を変えればいいか?

答えは大きくなくていい。

  • 小さなことでも、自分の意思で選ぶ
  • 「義務だから」ではなく「やりたいから」へ
  • 自分の人生に“初夏の朝”の風を取り戻す

それだけで、ほんの少し未来が変わる。

ギルバートが初めて心を動かしたように。

僕らもまた、自分のための人生を、もう一度始めればいい。

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永井 大介

© 二〇二五