夜七時

2025-11-18

映画 セッションは、なぜ心がかき乱されるのか

映画『セッション』(原題:Whiplash)を観て、しばらく胸のざわつきが収まらなかった。

面白い、最高にかっこいい。でも、同時にしんどい。

この映画はいったい、何をこちらの心に叩きつけてくるのか。

少し考えてみたら、その理由のひとつは「自分の中にフレッチャーがいる」と気づかされるからだと思った。

自分の中に住んでいるフレッチャー

鬼教官フレッチャーは、暴力的な罵倒と理不尽な要求で生徒たちを追い込んでいく。

あそこまで露骨ではないにせよ、あの感じに心当たりがある人は多いんじゃないだろうか。

特に「自己責任世代(ロスジェネ以降)」みたいな空気の中で生きてきた自分たちは、

  • 自分を常に監視し、
  • ちょっとサボると「ほら、だからダメなんだ」と責め立て、
  • 「厳しくしていないと、上に上がる資格なんてない」と信じ込んでしまう。

そういう“内なる鬼軍曹”を、かなり標準装備している気がする。

フレッチャーは、単なる「外側」の悪役ではない。

失敗すれば、「おまえは無能だ」と言ってくる。

そこそこ上手くいったのに、「まだまだだろ」と言いながら、足りない部分を見つけては延々とダメ出しする、自分自身の声。

あの映画で心が苦しくなる人は、きっと「内なるフレッチャー」の存在を、痛いほど突きつけられている。

だからこそ、あそこで教え子が自殺してしまう話も、まったく“他人事”に感じられない。

あの詰められ方を延々と食らったら、折れてしまう人がいても不思議じゃない、と普通に理解できてしまうからだ。

原題「Whiplash」が天才的にハマっている

原題の “Whiplash” は「むち打ち症」の意味だ。

鞭でバシッとやられたような衝撃、急ブレーキで首だけ持っていかれる感じ。

  • フレッチャーの罵倒は、まさに精神的な“鞭打ち”。
  • 物語も、持ち上げては落とし、急カーブだらけで観客の首をガクガク言わせてくる。
  • そして、ニーマンはついに本当に交通事故まで起こす。もはや比喩ではなく、物理的なむち打ちである。

タイトルからして、優しさや成長物語ではなく、

「急激な衝撃」と「痛み」を扱う映画だと宣言しているように見える。

いっぽう邦題の「セッション」は、ラストシーンへの寄せ方がうまい。

あのドラムと指揮の狂ったやり取りは、たしかに“セッション”としか言いようがない。

原題と邦題で、暴力性と音楽性、二つの側面を分担している感じがして、とてもよくできた組み合わせだと思う。

フレッチャーもニーマンも、「良いヤツ」ではない

ここで強く感じたのは、この映画は決して「苦行や根性を礼賛しているわけではない」ということだ。

まず、演出がぶっ飛びすぎていて、フレッチャーやニーマンに素直に共感できる余地がほとんどない。

あの二人はどう見てもサイコで、客観的に見れば危険人物だ。

  • 椅子を投げる。
  • 平手打ちを連発する。
  • 朝6時集合なのに、実際に始まるのは9時。
  • 気に入らなければ、感情に任せて生徒を潰す。

フレッチャーだけじゃない。ニーマンも相当おかしい。

  • スネアのヘッドをグーでぶち破る。
  • 代わりに叩くドラマーに「くそ野郎」と言い放つ。
  • 交通事故で血まみれになった直後なのに、平然とステージに向かう。

二人とも、明らかに普通ではない。

この映画は彼らを「良い先生」「努力家な若者」として描いていないし、

「みんなもあの二人みたいに頑張ろう」なんてメッセージは、絶対に込めていない。

「血のにじむような努力」を礼賛する映画ではない

日本人の感覚として、

天才が開花するには血のにじむような努力が必要だ

という物語は、とても好まれやすい。

かくいう僕も、そう言った教育を受けてきた世代だから、すんなりとこの考えを受け入れてしまう。

だから『セッション』も、そういう話に読まれがちかもしれない。

でも、もし本当にそれを肯定したいなら、

  • フレッチャーのやり方は正しかった、
  • あの地獄の指導があったからこそ、輝かしい成功が手に入った、

という形で締めるはずだ。

ところがラストのステージはどうだろう。

あれだけぶち壊しておいて、あの二人がその後、業界で“順風満帆”にやっていけるとは、とても思えない。

  • 客もメンバーも完全に無視し、
  • 指揮者の指示も無視し、
  • ステージを自分たちの闘技場に変えてしまった人間たちを、
    「使いやすいミュージシャン」として起用したい人が、どれだけいるだろう。

天才を育てるには悪魔のような教師が必要だ――

そう言い切るには、映画の描写はあまりにも不穏で、ハッピーエンドにはほど遠い。

最後に始まるのは、「成功」ではなく“本当の音楽”

それでもラストシーンは、圧倒的に美しい。

譜面も段取りも無視して、ニーマンが勝手に「キャラバン」を叩き始める。

フレッチャーは一度は潰そうとするが、次第にその流れに乗り、いつのまにか二人は“狂奏”の世界へ入っていく。

  • 将来のキャリアも、
  • 名声も、
  • 評価も、
  • 成功するかどうかすらも、

すべて吹っ飛んだ場所で、

今、この瞬間だけを叩き続ける二人

が、そこにいる。

はっきり言って、バンドメンバーも客も置き去りだ。

協調性が求められるビジネスの場面では、ああいう人たちは「使えない」と判断されるに違いない。

それでも、あの瞬間の彼らは、たしかにピュアに音楽をやっている。

「うまく演奏しなきゃ」

「失敗してはいけない」

「将来のために」

そういう“ノイズ”から完全に解放されている。

ラストシーンは、こう問いかけているように見える。

うまくやろうとすることも、

将来の成功も、

社会的地位も、

本当は音楽とはまったく関係ないんじゃないですか?

ただ純粋に、音に没頭する行為。

先のことも考えず、「楽しくて仕方がない」状態に入り込むこと。

そこにこそ「芸術」ひいては「人生」の本質があるのではないか。

少なくとも僕には、そう聞こえた。

変なやつらが勝手にやっている。その姿が、美しい

『セッション』を見終わって思うのは、

  • 才能も、
  • 芸術も、
  • 血のにじむような努力も、

本来は礼賛の対象ではない、ということだ。

ただ、ちょっと変なやつらが勝手に燃え上がって、周囲の迷惑も顧みずに、なにかをやっている。

その姿が、結果として「美しい」と感じられてしまうことがある。

僕はこの映画を、「努力すれば成功する」という道徳の話としては、まったく見ていない。

むしろ、

そこまで行ったらもう戻れないよね、でもその瞬間だけは眩しいよね。

という、危うさと美しさが同居する作品だと感じている。

そして、胸がかき乱されるのは、フレッチャーもニーマンも、自分の中のどこかに住み着いているからだ。

  • 自分を追い込みすぎる鬼軍曹としてのフレッチャー。
  • それでも何かに没頭したくて、気づけば無茶をしてしまうニーマン。

その両方を抱えたまま生きている現代人にとって、『セッション』はかなり痛い鏡だ。

だからこそ、目をそらしたくなるし、それでも目を離せない。

そんな映画だった。

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永井 大介

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