映画 セッションは、なぜ心がかき乱されるのか
映画『セッション』(原題:Whiplash)を観て、しばらく胸のざわつきが収まらなかった。
面白い、最高にかっこいい。でも、同時にしんどい。
この映画はいったい、何をこちらの心に叩きつけてくるのか。
少し考えてみたら、その理由のひとつは「自分の中にフレッチャーがいる」と気づかされるからだと思った。
自分の中に住んでいるフレッチャー
鬼教官フレッチャーは、暴力的な罵倒と理不尽な要求で生徒たちを追い込んでいく。
あそこまで露骨ではないにせよ、あの感じに心当たりがある人は多いんじゃないだろうか。
特に「自己責任世代(ロスジェネ以降)」みたいな空気の中で生きてきた自分たちは、
- 自分を常に監視し、
- ちょっとサボると「ほら、だからダメなんだ」と責め立て、
- 「厳しくしていないと、上に上がる資格なんてない」と信じ込んでしまう。
そういう“内なる鬼軍曹”を、かなり標準装備している気がする。
フレッチャーは、単なる「外側」の悪役ではない。
失敗すれば、「おまえは無能だ」と言ってくる。
そこそこ上手くいったのに、「まだまだだろ」と言いながら、足りない部分を見つけては延々とダメ出しする、自分自身の声。
あの映画で心が苦しくなる人は、きっと「内なるフレッチャー」の存在を、痛いほど突きつけられている。
だからこそ、あそこで教え子が自殺してしまう話も、まったく“他人事”に感じられない。
あの詰められ方を延々と食らったら、折れてしまう人がいても不思議じゃない、と普通に理解できてしまうからだ。
原題「Whiplash」が天才的にハマっている
原題の “Whiplash” は「むち打ち症」の意味だ。
鞭でバシッとやられたような衝撃、急ブレーキで首だけ持っていかれる感じ。
- フレッチャーの罵倒は、まさに精神的な“鞭打ち”。
- 物語も、持ち上げては落とし、急カーブだらけで観客の首をガクガク言わせてくる。
- そして、ニーマンはついに本当に交通事故まで起こす。もはや比喩ではなく、物理的なむち打ちである。
タイトルからして、優しさや成長物語ではなく、
「急激な衝撃」と「痛み」を扱う映画だと宣言しているように見える。
いっぽう邦題の「セッション」は、ラストシーンへの寄せ方がうまい。
あのドラムと指揮の狂ったやり取りは、たしかに“セッション”としか言いようがない。
原題と邦題で、暴力性と音楽性、二つの側面を分担している感じがして、とてもよくできた組み合わせだと思う。
フレッチャーもニーマンも、「良いヤツ」ではない
ここで強く感じたのは、この映画は決して「苦行や根性を礼賛しているわけではない」ということだ。
まず、演出がぶっ飛びすぎていて、フレッチャーやニーマンに素直に共感できる余地がほとんどない。
あの二人はどう見てもサイコで、客観的に見れば危険人物だ。
- 椅子を投げる。
- 平手打ちを連発する。
- 朝6時集合なのに、実際に始まるのは9時。
- 気に入らなければ、感情に任せて生徒を潰す。
フレッチャーだけじゃない。ニーマンも相当おかしい。
- スネアのヘッドをグーでぶち破る。
- 代わりに叩くドラマーに「くそ野郎」と言い放つ。
- 交通事故で血まみれになった直後なのに、平然とステージに向かう。
二人とも、明らかに普通ではない。
この映画は彼らを「良い先生」「努力家な若者」として描いていないし、
「みんなもあの二人みたいに頑張ろう」なんてメッセージは、絶対に込めていない。
「血のにじむような努力」を礼賛する映画ではない
日本人の感覚として、
天才が開花するには血のにじむような努力が必要だ
という物語は、とても好まれやすい。
かくいう僕も、そう言った教育を受けてきた世代だから、すんなりとこの考えを受け入れてしまう。
だから『セッション』も、そういう話に読まれがちかもしれない。
でも、もし本当にそれを肯定したいなら、
- フレッチャーのやり方は正しかった、
- あの地獄の指導があったからこそ、輝かしい成功が手に入った、
という形で締めるはずだ。
ところがラストのステージはどうだろう。
あれだけぶち壊しておいて、あの二人がその後、業界で“順風満帆”にやっていけるとは、とても思えない。
- 客もメンバーも完全に無視し、
- 指揮者の指示も無視し、
- ステージを自分たちの闘技場に変えてしまった人間たちを、
「使いやすいミュージシャン」として起用したい人が、どれだけいるだろう。
天才を育てるには悪魔のような教師が必要だ――
そう言い切るには、映画の描写はあまりにも不穏で、ハッピーエンドにはほど遠い。
最後に始まるのは、「成功」ではなく“本当の音楽”
それでもラストシーンは、圧倒的に美しい。
譜面も段取りも無視して、ニーマンが勝手に「キャラバン」を叩き始める。
フレッチャーは一度は潰そうとするが、次第にその流れに乗り、いつのまにか二人は“狂奏”の世界へ入っていく。
- 将来のキャリアも、
- 名声も、
- 評価も、
- 成功するかどうかすらも、
すべて吹っ飛んだ場所で、
今、この瞬間だけを叩き続ける二人
が、そこにいる。
はっきり言って、バンドメンバーも客も置き去りだ。
協調性が求められるビジネスの場面では、ああいう人たちは「使えない」と判断されるに違いない。
それでも、あの瞬間の彼らは、たしかにピュアに音楽をやっている。
「うまく演奏しなきゃ」
「失敗してはいけない」
「将来のために」
そういう“ノイズ”から完全に解放されている。
ラストシーンは、こう問いかけているように見える。
うまくやろうとすることも、将来の成功も、
社会的地位も、
本当は音楽とはまったく関係ないんじゃないですか?
ただ純粋に、音に没頭する行為。
先のことも考えず、「楽しくて仕方がない」状態に入り込むこと。
そこにこそ「芸術」ひいては「人生」の本質があるのではないか。
少なくとも僕には、そう聞こえた。
変なやつらが勝手にやっている。その姿が、美しい
『セッション』を見終わって思うのは、
- 才能も、
- 芸術も、
- 血のにじむような努力も、
本来は礼賛の対象ではない、ということだ。
ただ、ちょっと変なやつらが勝手に燃え上がって、周囲の迷惑も顧みずに、なにかをやっている。
その姿が、結果として「美しい」と感じられてしまうことがある。
僕はこの映画を、「努力すれば成功する」という道徳の話としては、まったく見ていない。
むしろ、
そこまで行ったらもう戻れないよね、でもその瞬間だけは眩しいよね。
という、危うさと美しさが同居する作品だと感じている。
そして、胸がかき乱されるのは、フレッチャーもニーマンも、自分の中のどこかに住み着いているからだ。
- 自分を追い込みすぎる鬼軍曹としてのフレッチャー。
- それでも何かに没頭したくて、気づけば無茶をしてしまうニーマン。
その両方を抱えたまま生きている現代人にとって、『セッション』はかなり痛い鏡だ。
だからこそ、目をそらしたくなるし、それでも目を離せない。
そんな映画だった。