燃え尽きだと思っていた。けど正体は、ニヒリズムだったのかも
最近の自分の気持ちが上がらない理由を「燃え尽き」や「ミッドライフクライシス」と呼んでいた。
もちろんそれもある。けれど、どうにも説明しきれない感覚が残った。
それは、単なる疲れではない。
「回復すれば元に戻る」タイプの落ち込みでもない。
言葉にすると、こうだ。
世界の“正しさ”が抜け落ちた。
そして、その抜け落ち方が、僕の生活や仕事のエネルギーに直撃していた。
この状態に、いちばん近い名前は「ニヒリズム」だった。
ニヒリズムは「主義」でもあり「状態」でもある
ニヒリズムは哲学的には「客観的な意味や正しさは存在しない」という立場として語られる。
けれど、僕にとって切実なのはむしろ、そこから派生する“状態”の方だった。
- 何を頑張っても、どこかが空虚に感じる
- 以前は燃料だったものが、燃えなくなる
- 正しいと思っていた営みが、正当化の装置に見える
特に刺さったのは、「正しさ」だった。
「正しさ」に穴が空いた経緯
僕に影響が大きかったのは、サンデル教授の『実力も運のうち』、グレーバーの『ブルシット・ジョブ』、ハラリの『ホモ・デウス』など、社会の“正当化ストーリー”を剥がす本たちだった。
読んで良かった。
彼らは僕に、こう言ってくれた気がする。
「俺は俺のままでいい」
社会の評価軸を盲信しなくていい。
競争のゲームを“自然なもの”として受け入れなくていい。
ここまでは、救いだった。
問題はその次に起きた。
僕が現実に生きている社会。そこでのルールは、僕にこう迫ってくる。
「今のお前ではダメだ」
もっと成長しろ。もっと差別化しろ。もっと勝て。
その矛盾が、精神のど真ん中に刺さった。
いちばん苦しかったのは「競争に加担していた感覚」
僕が「加担していた」と感じる対象は、仕事全般に漂う“競争のゲーム”だった。
- 他者との差をつける
- 上に上がる
- 勝ち筋を作る
- 勝つために振る舞いを最適化する
僕自身も、どこかでそれを燃料にしてきた。
むしろ、ある時期までは得意だったと思う。戦略的に立ち回れたし、結果も出せた。
でもある日、突然、そのゲームが“正しい努力”ではなく、社会装置の回転数を上げる行為に見えてしまった。
そして気づいてしまった。
僕はそのゲームのプレイヤーであると同時に、ゲームを回す側にもなっていた。
この感覚は、罪悪感というより、倫理的な痛みだった。
自分の善意や努力が、別の方向に利用されていたような痛み。
なのに、生活のためには社会に接続しないといけない
ここで詰まる。
僕は競争を信じなくなった。
でも、社会の中で生きるにはお金が要る。仕事を得るには、相手のルールもある。
社会のルールに合わせること自体は、そんなに怖くない。
僕は元々、ルールから外れることもあるし、それをそこまで悪いとも思っていない。
ただ、怖いのはこれだ。
ルールから外れると、お金に困る。
当たり前の事だ。
僕の恐怖の核は、自己喪失よりも生活不安だった。
この現実がある限り、「競争は虚構だ」と見抜いたところで、完全に降りることはできない。
ここが、ニヒリズムを“しんどい方”に寄せる。
楽しかったはずの自己ブランディングが重くなるとき
個人プロジェクトも同じ構造を持っていた。
発信、ブランディング、マーケ。
それらが必要なことは理解している。生活の接続には、むしろ必須だ。
でも現代のマーケ手法を知るほど、僕にはこう見えてしまう。
「買わせたもん勝ち」
不安を煽り、焦らせ、希少性を演出し、相手の判断を歪めて成果を取る。
この世界観に肯定的になれない。
だから手が止まる。
純粋に作る楽しさからも距離ができる。
ここで、僕の中の倫理センサーが叫ぶ。
「それはやりたくない」
「それに加担したくない」
結論:競争を否定しても、生活の接続は必要だ
ここまで考えて、ようやく見えた。
僕がやるべきなのは、どちらかを選んで片方を捨てることではない。
- 競争のゲームを否定する
- でも生活のために社会へ接続する
この両立が必要だ。
そして両立の鍵は、精神論ではなく「設計」だと思った。
“誠実な接続”を設計する。
社会のルールを信仰する必要はない。
でも、利用はする。
その時、僕の倫理を売り渡さない形で接続する。
「誠実な接続」のための、やらない憲法
まずは「やらない」を決める。
これは防波堤だ。競争ゲームに巻き込まれないための最低限のルール。
- 比較を燃料にしない
- 勝つための人格改造をしない
- 不安を煽って人を動かさない
- 盛らない(誇張しない)
- 合わない人にまで売ろうとしない
- 意味のない努力を美徳にしない
これを決めると、社会に接続しても自分の手触りが残る。
生活不安に飲まれない「守りの設計」
次に必要なのは、外れても死なない構造だ。
僕は「ルールから外れるのが怖い」のではなく、外れた結果として生活が荒れるのが怖い。
だから、意志ではなく構造で守る。
- 収入を二層に分ける(守りの収入 / 攻めの資産)
- 週1回だけ現金化タスクを入れる(気分に依存しない)
- ブランディングは「自己演出」ではなく「道標」にする(必要な人に見つけてもらう)
ニヒリズムは敵じゃない。再設計のサインだった
僕はずっと、「気持ちが上がらないのは自分の問題だ」と思っていた。
おそらく、ミッドライフクライシスで苦しむ人の心には、多かれ少なかれこの「ニヒリズム」が含まれているはずだ。
僕は、社会の「競争ゲームの正当化」を見抜いてしまった。
その視界を得た結果、以前の燃料が燃えなくなった。
そして、生活の現実と倫理の痛みの間で、虚無が生まれた。
でも、ニヒリズムは「終わり」ではなく、価値観と生活を整合させるための、再設計サインだった。
社会を信じなくていい。
でも社会に接続しないと生きられない。
だから僕は、誠実な接続を設計する。
たぶん、ここからだ。