夜七時

2026-01-29

宗教と僕の距離感が、ようやく言葉になった

宗教というものに、ずっと興味があった。

「信じる/信じない」で片づけるには、どうにも雑すぎる気がしていた。

宗教は、怪しいものとして語られやすい。

もちろん、悪質な集団があるのも事実だし、その警戒心は正しい。

一方で、宗教そのものが人間の歴史に果たしてきた役割まで、まとめて切り捨ててしまうのも違う気がしていた。

だから僕は最近、ある宗教的な場に触れる機会を持った。

ここで重要なのは、特定の団体について語りたいのではない、ということだ。

むしろ僕が書きたいのは、それを通じて自分の内側で起きた発見のほうだ。

宗教は「教え」よりも「システム」だった

宗教の教えは、驚くほど当たり前のことだった。

  • 他人に親切にする
  • 受け入れる
  • だまさない

小学生のころに学ぶような倫理や道徳。

それを改めて聞きながら、僕は正直こう思った。

「え、みんなこれ、そんなにできてないの?」

もちろん、宗教が言う「他者を思う」は、もっと高いレベルを指しているのだろう。

嫌いな相手や、都合の悪い相手に対しても誠実でいるとか。

不安や焦りに飲み込まれたときでも、雑にならないとか。

そういう意味で、簡単な話ではない。

ただ少なくとも僕は、「教え」の部分に関しては、すでに人生経験の中で、そこそこ実行してきた感覚があった。

この発見は、意外と大きかった。

“どこかの答え”をもらったというより、「今までの自分は間違ってなかった」と確認できた感じ。

そして、もっと面白かったのは別の部分だ。

宗教は、教え以上に「システム」として精巧だった。

儀式、ルーティン、集まり。

人と人が同じ時間を共有し、同じ言葉を反復し、同じ空気の中に身を置く。

それは、僕が最初に想像していたよりずっと強い作用を持っていた。

「おまじない」の再発見

僕は今回、宗教の価値を「おまじない」という言葉で捉え直した。

おまじないって、幼稚に聞こえるかもしれない。

でも、人間は思っている以上に雰囲気に左右される。

空気が変われば、気分が変わる。

気分が変われば、行動が変わる。

行動が変われば、人生の景色が変わる。

宗教の儀式やルーティンは、その「空気」をつくる技術だった。

スポーツ選手が本番前にルーティンを持つのと、よく似ている。

心の準備を整えるための、身体的なプロトコル。

だから僕は思った。

  • 宗教に所属しなくてもいい
  • でも、自分のメンタルを整えるための「おまじない」やルーティンは、作ったほうがいい

たとえば、仕事を始める前の短い準備。

気持ちが沈んだときに戻ってくる合言葉。

疲れた日の終わらせ方。

そういう小さな儀式が、僕を助ける。

宗教の技術は、信仰の外側にも輸出できる。

僕が宗教に傾倒できない理由

とはいえ、僕は宗教にのめり込むタイプではないと思う。

その根っこには、たぶん僕の世界観がある。

僕は「神=自然」だと思っている。

自然は、人間のことを特別扱いしない。

人間を助ける意図もなければ、罰する意図もない。

だからこそ、災害は起こるし、死んでしまう人もいる。

そこに意味があるわけじゃない。

ただ、出来事が起こる。

この前提があるので、「それは前世のせいだ」とか、「徳が足りないから不幸になった」という説明には、どうしても納得できない。

不幸を、個人の責任や霊的な不足に回収するのは、倫理として筋が悪いと思う。

理不尽は理不尽のまま起きる。

だから、助けるのは人間だ。

僕が大切にしたいのは、そういう社会的な倫理のほうだ。

「増やす」圧力が苦手だ

もうひとつ。

宗教と距離を取りたくなる理由がある。

それは「増やす」圧力だ。

教えそのものよりも、勧誘や、何かを買うことや、組織を維持するための活動が前に出た瞬間、空気が変わる。

善行が善行ではなく、“何かを得るための取引”に見えてしまう。

僕は理想主義かもしれないけれど、こう信じたい気持ちがある。

本当に良いものなら、無理に売らなくても、自然に残る。

少なくとも「営業っぽさ」が混ざった瞬間、僕の中のセンサーは強く鳴ってしまうのだ。

宗教は「終わった」のではなく「薬の種類が変わった」

現代は、昔より人生のコントロール幅が広い。

医療もインフラも制度もある。

だから宗教は、役割を終えたようにも見える。

でも、震災や災害のように、人間がどうにもできない理不尽は今もある。

そして、人生の喪失や絶望は、いつだって起こりうる。

そういうとき、宗教のシステムは“効く”のだと思う。

  • 余計な思考を鎮める
  • 耐えがたい痛みの置き場をつくる
  • 孤独を薄める
  • 人生の節目に区切りを与える

僕は、宗教を常備薬だとは思っていない。

でも頓服としてなら、必要になる瞬間があるかもしれない。

そして、その時に頼れる仕組みが世の中に存在すること自体は、人間社会の発明だと思う。

今のところ、僕は「今まで通りでいい」

今回、宗教に触れたことで、僕は宗教に近づいたというより、距離感がはっきりした。

  • 宗教を怖がるだけではなく
  • 宗教を盲信するだけでもなく
  • 必要なときに頼れる「仕組み」として理解できた

そして何より、自分の倫理感が、すでにそこそこ機能していることを再確認できた。

今のところ、僕は今まで通りでいい。

親切にする。

だまさない。

受け入れる。

当たり前のことを、当たり前にやる。

その難しさを知っているからこそ、そこに戻り続けたい。

宗教を通じて得た最大の収穫は、

宗教そのものではなく、「自分の生活に合うおまじない」を自分で設計していく発想だったのかもしれない。

Buy Me a Coffee at ko-fi.com
永井 大介

© 二〇二六