宗教と僕の距離感が、ようやく言葉になった
宗教というものに、ずっと興味があった。
「信じる/信じない」で片づけるには、どうにも雑すぎる気がしていた。
宗教は、怪しいものとして語られやすい。
もちろん、悪質な集団があるのも事実だし、その警戒心は正しい。
一方で、宗教そのものが人間の歴史に果たしてきた役割まで、まとめて切り捨ててしまうのも違う気がしていた。
だから僕は最近、ある宗教的な場に触れる機会を持った。
ここで重要なのは、特定の団体について語りたいのではない、ということだ。
むしろ僕が書きたいのは、それを通じて自分の内側で起きた発見のほうだ。
宗教は「教え」よりも「システム」だった
宗教の教えは、驚くほど当たり前のことだった。
- 他人に親切にする
- 受け入れる
- だまさない
小学生のころに学ぶような倫理や道徳。
それを改めて聞きながら、僕は正直こう思った。
「え、みんなこれ、そんなにできてないの?」
もちろん、宗教が言う「他者を思う」は、もっと高いレベルを指しているのだろう。
嫌いな相手や、都合の悪い相手に対しても誠実でいるとか。
不安や焦りに飲み込まれたときでも、雑にならないとか。
そういう意味で、簡単な話ではない。
ただ少なくとも僕は、「教え」の部分に関しては、すでに人生経験の中で、そこそこ実行してきた感覚があった。
この発見は、意外と大きかった。
“どこかの答え”をもらったというより、「今までの自分は間違ってなかった」と確認できた感じ。
そして、もっと面白かったのは別の部分だ。
宗教は、教え以上に「システム」として精巧だった。
儀式、ルーティン、集まり。
人と人が同じ時間を共有し、同じ言葉を反復し、同じ空気の中に身を置く。
それは、僕が最初に想像していたよりずっと強い作用を持っていた。
「おまじない」の再発見
僕は今回、宗教の価値を「おまじない」という言葉で捉え直した。
おまじないって、幼稚に聞こえるかもしれない。
でも、人間は思っている以上に雰囲気に左右される。
空気が変われば、気分が変わる。
気分が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、人生の景色が変わる。
宗教の儀式やルーティンは、その「空気」をつくる技術だった。
スポーツ選手が本番前にルーティンを持つのと、よく似ている。
心の準備を整えるための、身体的なプロトコル。
だから僕は思った。
- 宗教に所属しなくてもいい
- でも、自分のメンタルを整えるための「おまじない」やルーティンは、作ったほうがいい
たとえば、仕事を始める前の短い準備。
気持ちが沈んだときに戻ってくる合言葉。
疲れた日の終わらせ方。
そういう小さな儀式が、僕を助ける。
宗教の技術は、信仰の外側にも輸出できる。
僕が宗教に傾倒できない理由
とはいえ、僕は宗教にのめり込むタイプではないと思う。
その根っこには、たぶん僕の世界観がある。
僕は「神=自然」だと思っている。
自然は、人間のことを特別扱いしない。
人間を助ける意図もなければ、罰する意図もない。
だからこそ、災害は起こるし、死んでしまう人もいる。
そこに意味があるわけじゃない。
ただ、出来事が起こる。
この前提があるので、「それは前世のせいだ」とか、「徳が足りないから不幸になった」という説明には、どうしても納得できない。
不幸を、個人の責任や霊的な不足に回収するのは、倫理として筋が悪いと思う。
理不尽は理不尽のまま起きる。
だから、助けるのは人間だ。
僕が大切にしたいのは、そういう社会的な倫理のほうだ。
「増やす」圧力が苦手だ
もうひとつ。
宗教と距離を取りたくなる理由がある。
それは「増やす」圧力だ。
教えそのものよりも、勧誘や、何かを買うことや、組織を維持するための活動が前に出た瞬間、空気が変わる。
善行が善行ではなく、“何かを得るための取引”に見えてしまう。
僕は理想主義かもしれないけれど、こう信じたい気持ちがある。
本当に良いものなら、無理に売らなくても、自然に残る。
少なくとも「営業っぽさ」が混ざった瞬間、僕の中のセンサーは強く鳴ってしまうのだ。
宗教は「終わった」のではなく「薬の種類が変わった」
現代は、昔より人生のコントロール幅が広い。
医療もインフラも制度もある。
だから宗教は、役割を終えたようにも見える。
でも、震災や災害のように、人間がどうにもできない理不尽は今もある。
そして、人生の喪失や絶望は、いつだって起こりうる。
そういうとき、宗教のシステムは“効く”のだと思う。
- 余計な思考を鎮める
- 耐えがたい痛みの置き場をつくる
- 孤独を薄める
- 人生の節目に区切りを与える
僕は、宗教を常備薬だとは思っていない。
でも頓服としてなら、必要になる瞬間があるかもしれない。
そして、その時に頼れる仕組みが世の中に存在すること自体は、人間社会の発明だと思う。
今のところ、僕は「今まで通りでいい」
今回、宗教に触れたことで、僕は宗教に近づいたというより、距離感がはっきりした。
- 宗教を怖がるだけではなく
- 宗教を盲信するだけでもなく
- 必要なときに頼れる「仕組み」として理解できた
そして何より、自分の倫理感が、すでにそこそこ機能していることを再確認できた。
今のところ、僕は今まで通りでいい。
親切にする。
だまさない。
受け入れる。
当たり前のことを、当たり前にやる。
その難しさを知っているからこそ、そこに戻り続けたい。
宗教を通じて得た最大の収穫は、
宗教そのものではなく、「自分の生活に合うおまじない」を自分で設計していく発想だったのかもしれない。